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病と治療

 ドクターズルール425という本がある。実は、私は、この本を実際見ていない。絶版になっていて、数百円の本が数万円で取引されているのだ。

この本は、まさに、ドクターの心得集とも言えるもので、絶版になっていてもこの本に関する記述は多い。短い言葉の中に深い洞察と知恵が秘められている。そして多くの同僚や医師からの支持や同意を得て選別し完成されたものであるという。そう考えると、この本は「癒し」という広い範疇での口訣集であり経験則集である。

今回、温心堂薬局のコラム「治療家への箴言」を参考に、感じたところを書いてみました。

 

 【参考図書】温心堂薬局ホームページ 「治療家への箴言」

 

1、効果のない薬は中止せよ。効果のある薬は継続せよ。

 効果の判定は本当に難しい。効果とは治療家の知識や経験の中で構成される感覚であり、当然、治療家によってそのイメージは異なる。まして、患者さんにおいては、もっと異なっている。従って、治療家と患者さんの間のこの感覚の相違をより少なくすることも治療家の役割であるのかもしれないし、上手な治療の必須事項なのかも知れない。

 

 一般に患者さんの自覚症状が改善しないと薬は継続されない場合が多い。

 鎮痛剤、鎮咳剤、高血圧薬や利尿剤など、その効果がはっきりと解るものは、その継続の判断は、十分にわかりやすいであろう。しかし、これらの薬が根本療法であるかというとその意味では、漫然と継続するだけでは、治療の本質ではない対症療法(根本療法に対して、とりあえずのつらい症状に対する処置療法)であると言わざろう得ない。

 つまり、痛みを止めることができない鎮痛剤は当然中止して、他の効果のある鎮痛剤に変えるべきであるが、効果のある鎮痛剤といえども、その原因を治すべき治療を一緒に並行して実施しなければ、本来の治療とは言えないであろう。

 

 時に、治療は、この原因が不明であるが故に、あくまでも対症療法で症状だけは抑えておいて、その病が自然に治ることを待つしかない。まさに、自然治癒力、言い換えれば、その人の持つ回復力に治療を委ねるのである。

 

 しかし、よくよく考えてみると、治らぬ病などないかのように振舞っている現代医療といえども、その治癒には、この患者の回復力にその多くを頼っていると言える。従って、病を治しているのは、患者さん自身であり、医師も看護師も薬剤師も、そもそも医療自体が、患者さんへの手助け以外の何ものでもないと言える。

 

 その意味で、自らの医療行為を神のごとく振舞う治療家は、最初から考え違いをしていると判断していいかもしれなし、逆を言うと、自分の限界を知っている治療家こそ信頼できる治療家であると言える。

 さらに言えば、むしろ、患者さんと一緒に苦しむことのできるこの「限界を知る治療家」こそ信頼できる。

 

 信頼こそ患者にとって一番大切な判断基準であると自分は考えているが、当然その信頼のためには、その医療技術の高さは必須であろう。ただ、この信頼と医療技術は、患者ごとに変わるものであり、絶対ではない。

 その故に、多くの治療が存在し、多くの治療家が勇名を馳せるのであろう。

 

 さて、霊水とした山奥の湧き水で苦痛が軽減すれば、効果があったとして継続するべきなのだろうか?

極端な例に感じるかもしれないが、医師が処方する薬にもあてはまる。

 A医師の信じる処方が、B医師に否定されたり、C医師の確かな診断に基づく処方が必ず有効とは限らない。また、別の医師による異なる治療で癒される病気もある。

 

 すぐ効果の出る病気ではないとき、すぐ効かないからと薬を中止するのは正しい行為ではない。

 薬がすぐ効かないと解っていても継続することで効果を得ることを目的に処方されることもあるのだから。

 また、効かない薬にも関わらず、くる日もくる日も辛抱強く服み続ける患者もいる。

 ここにおける判断の良否は、その病気と薬をよく知って、決定されるべきである。

 

 確かに、きちんと継続することが基本的に正しい判断とされている。しかし、理にかなうとき、きっぱり中止する勇気も必要である。すなわち、継続を止めることで改善される苦痛もあるのだ。効果のある薬は副作用も兼ね備えているのだから。

 

2、どんな場合にもプラシーボ効果は存在する。あなたの行為のうちどれがプラシーボでどれが薬理効果かを知っておくこと。臨床上、それら2つを区別して考えること。

 治療家のちょっとした動作や言葉の一つが、病気の治癒に影響を与える。

 薬のみならず、治療家の存在そのものがプラシーボの要素を強く持っていると言える。

 いわゆる心霊治療や巫女の世界は、まさにプラシーボの要素が強いのではないだろうか。

 

 しかし、実際のところプラシーボと薬理効果の明確な区別など出来ない。一方、ささいなきっかけで、とたんにプラシーボが機能しなくなる事もある。

 プラシーボの作用を除くために二重盲検法が考案されたが、どこまで、区別ができているだろうか。治療家の思い込みや期待が大きいほど、証拠のない療法にも有用性が出てくることを否定できるだろうか。

 治療家が詐欺師や法螺吹きではたまったものではないし、犯罪につながるが、多少被暗示性の高い人のほうが支持されやすく、ときにプラスの効果をもたらしてくれる。

 しかし、薬理効果に関しては、当然、常にプラシーボ効果と切り離して議論する立場をもって進めていくべきだ。その立場なくしては、治療の有効性を探ることは出来ない。

 ※プラシーボ効果=偽薬(にせぐすり)効果。

  薬理効果のないものでも、薬と信じて飲むことで、効き目を感じることができる現象をいう。

 

3、好むと好まざるにかかわらず、どの医師にも小さな「呪医」が宿っている。「呪医」の技術を賢く、しかも患者の利益のためだけに使うように。

 前項で触れたが、治療家の存在そのものがプラシーボであるという要素の一つが「呪医」の例である。

 祈祷師や生き神様のように原因を明確に断定しその対策を確信をもって語りかけると、患者はその段階でまさに何割か、病気によっては殆ど治りかけてしまう例がある。さらに、お祓いや、お清めの儀式を通して治癒へのイメージが励起される。

 光線療法として、太陽光を浴びるだけで癒される不定愁訴。生理食塩水や色のついたビタミン注射で消える痛み。ときには高度に洗練された手術でさえプラシーボと無縁ではないのかもしれない。

 これらは呪医の技術に他ならい。医師の始まりは呪医に近いものではなかったのだろうか?祈祷師や教祖が下す御宣託はまさに医師の診断に違わない。患者のためであれば、この現象は十分に研究、利用する価値がある治療技術であろう。

 

4、患者には病人になる方法を教えるのではなく、健康になる方法を教えなさい。

 養生法や病気の克服法は即ち「健康になる方法」でもある。日常の診療で受ける指導そのものである。しかし、それがストレスになるならば「病人になる方法」を指導しているに過ぎない。適度のストレスやときには厳しい緊張は必要であるが、身も心もすり減らすストレスの持続は病気の大きな原因となる。稀には怪しい治療家の誤った(本人は正しいと信じる)養生法で健康になる事もあるが、凡そ不幸な結果に終わることが多い。

 

 禁ずる事での養生法の利点を認めつつも、禁じることで患者がどのように感じるか?どれだけの養生が出来るか?踏み込んで考えてみたい。指導は治療家の自己満足で終わる場合も多く、実行出来ない患者であれば簡単なアドバイスでさえ守れない。嗜好品の酒をゼロにするより、いくらかでも容認することで患者自身の治癒への意欲を高めるほうが好ましい。  

 

 ときには不健康の勧めが健康を促す動機になったりする。医者の書いた「不健康のすすめ」「不養生のすすめ」など読んでみると、それを狙ったものであることが伝わってくる。誰でも不健康より健康が良いに決まっている。出来れば労せず、出来れば簡単に、と考えるのが普通の感覚である。

 

 テレビの健康番組や健康雑誌が取り上げるネタも、労せず、簡単だから支持されるのかも知れない。しかし、一体どれくらい健康になれるというのだろう。満点の健康など検査数値と体調と気分でしか測れないものである。日々、健康という妄想に追われ続けるストレスこそ不健康ではないだろうか?

 

5、薬の投与を開始した後で出てきた新たな症状は、その他の原因が明らかにならない限り、その薬によるものと考える。あらゆる薬について、絶対に出ない症状というものはない。すべての薬について、どのようなことでも起こりうる

 解熱鎮痛薬の添付文書をみると、効能・効果に消炎、鎮痛、解熱とあり、副作用欄には全身に及ぶ症状が書かれている。

 とりわけ頭痛、浮腫、発赤に関しては効能・効果と相反する作用があることになる。頭痛薬を服んで頭痛が起こるなど信じがたい。しかし、起こりうるのである。

 添付文書を見る限り、薬は本来服むべきではないことを痛感する。日本人は薬好きでアメリカの4倍消費しているというが、薬好きにしたのは製薬会社や医療機関が薬で利益を上げるという長年の悪弊がもたらした遺物かもしれない。医師の技術を薬代ではなく、正当な評価のもとで見直そうという動きはすでに始まっているが、身についた習慣からはなかなか抜けきれない。

 

 これだけの副作用をもつ薬を幾つも併用するのであれば、その被害は計り知れないものがある。4種以上になれば、まったく予測のつかない事態になるという話もある。事細かに薬の説明を行うと、副作用に触れないわけにはいかない。そして、患者さんはそれを聞いただけで不安が立ち込める。仕方がないので副作用は伏せて投薬を続けなくてはならない。患者さんに尋ねられても「大丈夫…」としか言えないのだ。 

 

 ・この薬は病気の治療に必要なものです

 ・ドクターは充分検討のうえで処方されています

 ・副作用はあっても軽いものです

 ・作用の最も穏やかな薬です

 ・念のために胃薬も出しておきます

 ・治療方針もあるのでドクターに直接聞いてください

 •・・・・・・・•・・・・・

 

 このように薬局の窓口では来る日も来る日も会話ともつかない説得が続けられている。多少の副作用に踏み込んだため、医者の逆鱗に触れた例も数知れず知っているし、実際、私も経験がある。首をかしげる素振りもしてはならないときがある。副作用情報は扱いに困る問題である。副作用や治療上のリスクを示されるなら躊躇するのは当然の反応である。

 

 副作用情報に無防備で害を被るのはそれ以上に困る。身体の不調は薬が原因ではないか?という疑いは、患者より治療家の方がより意識を研ぎ澄まさなければならない。薬に関する気になるルールをいくつか記してみる。

 

 ・4種類以上の薬を服んでいる患者についての比較対照試験はこれまでに行われたことはなく、3種

  類の薬を服んでいる患者についての試験も ほんのわずかしか行われていない。4種類以上の薬を服

  んでいる患者は医学の知識を超えた領域にいるのである

 ・投薬の数が増えれば、副作用の起こる可能性は指数関数的に高くなる

 ・薬の副作用としてある特定の毒性が報告されていないからといって、それが起こりえないとか起こ

  らないということを意味するものではない

 ・薬物反応は患者によってさまざまな起こりかたをする

 ・ある患者でのみ特異的な反応を示す病気がある

 ・老人のほとんどは、服用している薬を中止すると体調が良くなる

 

 副作用で患者の苦しむさまを何もしないで眺めながら、好転反応と嘯(うそぶ)く治療家が居る。もちろん当たり前の神経ではない。このような治療家はきっぱり見限るべきである。

 しかし、一方で、生物の順応性や許容性に助けられていることを強く感じる。

 外部から摂取した異物に対して、生体がいかに上手にこれを処理して体外に排泄することができるか。その能力のおかげで、薬物療法が可能になるのである。

 

6、臨床的証拠がないからといって病気が存在しないという証拠にはならない

 苦痛があっても検査値に異常がなければ「病気ではありません」「病は気から、自律神経失調症でしょう」ということになる。

 一方で、臨床的証拠があっても、苦痛のない場合もあり、「自分は病気ではない」と言う人もある。

 純粋に客観的認識など認めない人にとって、主観こそが病の認識とつながる。

 病気は、治療家と患者の間で一定の合意が得られないと成立しないものかもしれない。

 病気でもないのに病人とされることがあり、病気にもかかわらずその認識のない人もある。見比べていると、病には人生観が色濃く反映することがわかる。

 

7、患者を治療するにあたって、あなたの性格はあらゆる薬や治療法と同じくらい重要である

 代替医療の様々な療法を見ていくと、とんでもない療法や薬がある。さらに不思議なことに、それで治ってしまう病気があるのだ。単にプラシーボと片付けられない奥深い神秘を感じる。その要素の一つに治療家の性格や人格が関与しており、この占める割合は大きい。

 

 患者にとって、良き治療家とは、必ずしも高潔な人格である必要はない。粗野な治療家、傲慢な治療家にも一定数の患者がつき、かつ一定数の成果を上げている。しかし、やはり治療家にふさわしい人格はありそうな気がする。

 患者の心や思いを捉える能力は訓練以前のものがある。マニュアルは存在しない。治療家としての資質や才能が試されるのである。

 通常医療以上に代替医療に於いては重要な要素となる。これらは、根拠の薄い療法にもかかわらず一定の需要があり、なくなることはない。そこに通常医療で得られない「何か」があるからだ。それは、まさに治療家の全人格を挙げて行われる「癒し」であるからに他ならない。

 

8、病気を知るよりもその病気を持っている患者を知ることが重要である

 生きかたや言動にその人の個性や人生観が反映するように、病気にもこのことがあてはまる。ここで、検査や画像で知りうることと、実際の病気との乖離が起る。人の思想や行動が多様であるように、同一の病名であっても人によって異なる症状を呈する。病気を診ることは人を診ることにつながる。
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